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世襲とはいけない事なのであろうか。

 よく政治家の問題で世襲議員というだけで批判されることがある。しかし世襲が問題なのであれば、雅楽を奏でる奏者を批判すればよいのであって、天皇を批判すればよいのであって、歌舞伎や能楽の演者を批判すればよいのであって、と多くの伝統を否定してしまうのである。

 

 そもそも世襲は悪い事ではない。

 

 何かを引き継ぐ、受け継ぐという事においては責任が常に付きまとうことになるのである。例えば、天皇家は常に人々の眼が向けられていて、なおその高貴さを保たれている。これはひとえに先祖代々受け継がれてきた、そして少しずつ少しずつ紡いできた歴史を背負う。その責任の表れでもあろうのではないだろうか。

 

 以前、警察官の子供が警察官になっている事が警察の腐敗を表していると評すジャーナリストを見たことがある。しかし子供のころからその父の背中を見続けているのに、どうして親がしている仕事を尊敬できない訳があろうか。私はこのジャーナリストが言っている言葉が軽率で滑稽に思えてきたのを思い出す。

 

 私はこの学問の意味さえこの文明をより良い形で子孫に残す、相続の関係であると捉えている。その相続は血縁関係のみに存している訳ではない。あらゆる人々からの遺産。それは過去および現在を生きるあらゆる人々からの相続である。

 

 歴史というのはあらゆるものを親から引き継ぎ、そしてより良い形で子供へ引き継ぐという過程であると捉えている。つまりそこには引き継いだ人間の責任というものが常に存在しているべきであるという事なのだ。決してそれを破壊するのではないのだ。ただしあらゆるものは常に新しいわけではない。そこには、ほころびも生じるであろう。そのほころびは時代に応じて修正するを要するのである。

 

 プラトンはエロスの神は永遠性を示すものであると言った。愛の女神であるエロスは子供を産ませるという行為によって、その永遠性を手に入れさせんとするものなのであると。人は子供を遺すという行為をして、歴史を紡いでいくのである。ところで、工芸品や芸術、技術や学問、思想哲学を含むあらゆるものがその永遠性を持つといった。全ての人間は懐妊状態であり、何かを生み出だすことが出来るのである。そこに尊さがあるのである。

 

 我々はつい政治家の世襲という部分に批判的になる。だがこのように考えてみると世襲が問題ではなく、それを自覚しない政治家が問題なのだ。またそのような責任をそもそもない物としてふるまい、これまでの過程を根本から破壊しようとする者がいる。面白い事に人間の社会は同じことを繰り返しているような場面がいくらかある。”以前の思想を否定して現在の思想を是とする”という風潮だ。そうした風潮は歴史を見てみると何度も何度も同じような道をたどっているように見えることだってある。

 

 だからこそ相続が必要なのである。しかし相続するにも限度があり、失われつつある財産もあるだろう。その限度を現行世代が少しずつ大きなものにしていく必要はないであろうか。前述したプラトンの思想だってそうである。彼が提案した多くの事は現代にも当てはまる普遍的なものであったりするのだ。つまり社会は進化していないともとれるのである。人間が人間である以上そこに抗う事はできないのかもしれない。しかしプラトンを否定してもそれは進化とは言えないのである。

 

 古典には物事の神髄が隠されていたりする。

 

 そうした事を学び、受け継いだ我々はそれをどう次の世代に引き継ぐかを考えるべきなのである。政治の問題は近年この先数年や数か月の話をしている事がある。目先の利益に踊らされることだって往々にしてある。しかしその政策を謳う政治家が果たして100年後200年後の未来を見据えつつ、過去、現在、未来で生活した、する、していく人々が納得する政治をしているであろうか。そしてそれがとても大事なことではないだろうか。

 

 例え数年の未来が明かるかったとしても、”今を生きる我々だけが良ければ良いのだ”という政治がなされ、まだ生まれてきていない子供たちの未来をないがしろにしている場合とてつもなく問題がある。それにこれは垂直的な話をしているが、水平的な話であっても同様で、この人にとってはいい話でもこの人にとっては悪い話というのが当然出てくる。その場合、全ての人が納得できる政治が行えるかが重要なのである。それは利益か不利益かという問題ではない。納得できるか否かの問題なのである。

 

 二世議員が問題なのであろうか。否である。成り上がり者も往々にしてこれまでの過程を皆目無碍にし、自分たちが良ければ良いとする改革を断行したりする。そうした破壊的な政治がもっと問題なのではないだろうか。

 

 現代では保守と呼ばれる政治家が創造的破壊を標榜する。つまり保守だろうが革新だろうが、その同根には同様の思想を宿しているのである。こうした問題の根底には、歴史の中間者としての責任の上に立つ政治家を大衆が選ぶ責任があるという事を自覚していない事実が横たわっている。

十二分に使い倒したEOS60Dとは何か。

僕が60Dを買った理由は、写真を本格的な趣味にしてみたかったからだ。当時でも旧型だったのだが、私に新型を使い倒す自信はなく、型落ちしたコイツを相棒に決めた。

 

当時でも新型とは言えないコイツ。再び買いなおすことを考えると、最初からフルサイズの6Dを買いなさい。当時そういう意見が多かったように感じる。でもお手軽なキットレンズを使える60Dを選んだことを後悔はしていない。

 

60Dを使ってる間に世間は70D、7D2、80Dと圧倒的に60Dより高スペックなものが登場していた。だけど僕はカメラが趣味ではなく、写真が趣味なのだった。今ある道具を120%、そして十二分に使ってこそ次なる道具に息を吹き込むことが出来る。

 

カメラというのは道具で、自分の表現を実現するものでもある重要な部分。道具がなければ野球が出来ないのと同様に、カメラが無ければ写真は撮れない。その道具もいい物である必要はあるが、それ以前にその道具を使いこなせなければ何にもならないのだ。

 

60D、こいつは写真を撮るうえでは十分な存在だ。ただし撮る写真を選ぶ必要があるが。レンズがその場に無いときは諦めて、違う主役を探す。こういうことがカメラにも言える。コイツが十分に力を発揮できないものは、諦める。それに主役を決めるのは僕たち自身だ。そのことに気づくころには相棒になっていた。

 

可能な限り低感度で、可能な限り絞り込み、可能な限りブレを抑える。そうした風景写真を志したうえでは、ほとんど障害はなかった。主役は地球上幾分にも存在しているし、どんなものでも主役になり得る。それを探すのが我々で、道具に使われてはならないのだ。「酒は飲んでも飲まれるな」うむ、いい言葉だ。「カメラを使っても使われるな」と反復したい気持ちである。

 

実は60Dでさえ、初めて一眼レフを手にした気持ちは複雑だった。これさえあればどんなものも作品に出来ると思い込んでいたが、適当にとってみてもありきたりの写真にしかならない。いい写真っていったい何なんだ。そう考えると不安がよぎった。一眼レフを持ってもいい写真は撮れないじゃないかと。そいつはそれを操る従者がいてこそ、力を発揮できる馬だったのだ。

 

いいカメラだからこそいい写真が撮れるのではなく、いいカメラだからこそ撮影者の意図を反映できるのだ。断じて主客転倒するものではない。こうした精神で僕はこれからも行こうと思う。