現代の怪物って何それ

なんか時事とか思ったことをすぐレスポンスしてみる脊髄反射

アベノミクスで観察すべき論点。未曽有の金融緩和は正しいか。

 まず未曽有の日銀による金融緩和政策についてであるが、この金融緩和の効果が正しく出ている訳ではないという。むしろその結果、都市銀、地銀などの市中銀行において皺寄せがきていると言われる。

 

 だから黒田総裁は金融緩和政策をやめろという声さえあるのである。ところでインフレターゲットというのはとても重要。こうした目標がない限りデフレマインドを払しょくする事は出来ず、その結果として不況というのはもっと長らく続いたのだと思われる。

 

 日本の不況はとても長期化していて、失われた20年と呼ばれるほど。こうした問題は世界を見回しても日本でのみ顕著にみられて、リーマンショックからの立ち直りも遅れ、不況が慢性化していたのだった。

 

 しばらくの間、現代経済学においては金融政策のみ有効だという考え方が占め始めており、不況=デフレ、好況=インフレ、というような伝統的な経済学で理解できない、インフレでありながら不況であるという状況が発生した事で、その処方箋を探していた。実際のところこの状況下で機能した経済学理論はフリードマンの考えた理論であって、こうした際には財政政策はただ人々に錯覚をもたらすものであって、長期的には負の遺産が残るだけであるといった考え方が主流になった。

 

 しかし80年代の石油危機以来、むしろ日本が長く苦しんだのは、不況とデフレという伝統的な経済状況であって、こうした問題に対処するにはフリードマンの仮説のみでは対処できないものがあったのだった。

 

 こうした処方箋に対処できるのは当然、ケインズ的な発想だったのだ。ケインズというと近年の経済学を齧った人々からすると「時代遅れだ。」などというのであるが、しかし現実問題として、これに対処できるのはケインズ学的発想しかないのである。

 

 たとえばデフレ不況時に緊縮財政を貫いた井上準之助、彼の政策によって昭和恐慌の嵐がこの日本で巻き起こったという事実がある。歴史的発想が経済政策にもたらされるべきなのになぜだか無視されるのは滑稽な話でもある。当然、金融緩和は貨幣供給を増やすという方法であるのだが、貨幣の供給を増やしたところで、市場にその需要が無ければその貨幣は市中を滞留するのみで、正の効果を生み出さないのである。

 

 貨幣需要を増大させるには当然、市中が使いたがらないのであれば政府が使う必要があるのであって、アベノミクスの問題点の一つには公共事業の徹底不順が伺われるのである。

 

 しかしその際の問題というのは当然あって、近年嫌われる公共事業というのはそもそも何が問題なのであろうか。という点に留意する必要がある。

 

 赤字国債の禁止というのは原則なのであって、建設国債というものと趣旨が異なっている。赤字国債というのは財政の均衡の為に国債を発行するのであって、建設国債は、現役世代と次世代が同時に恩恵に服するものに関して、共に財政を負担しようという考え方。こうしたものは財政法の趣旨にも合致しており、これを否定する根拠はない。

 

 ただし問題なのは、その際建築したものの維持管理、そして耐用年数の問題だ。これらを無視した建設を行うことで、今日「ハコモノ行政」と呼ばれる無駄な公共事業が発生し、今日次世代に対して負担だけを押し付けるものとなってしまった。ちなみにこうした公共事業の圧倒的な増加は、アメリカ政府による圧力がある。(年次改革要望書に沿うもので、アメリカの要求に従わざるを得ない日米関係に問題がある)。

 

 現役世代、次世代共に恩恵を分かち合い、さらに負担を分かつという正常な観点においてインフラ投資を行っていく必要があるのである。それによって次世代の豊かな生活を保障することに繋がるのであれば、無為無策によってみすみす経済の停滞、いや減退を承認し続けるよりましというものなのである。

 

 こうした問題の根底にはやはり財政支出の使い道、という所に活路を見いだす必要があるのでああて、政府支出の増加、ひいては国債発行額の増加のみをあげつらって批判するのは問題がある。

 

 長々と書いたが、財政政策の問題点はまだまだあるが、いやむしろ現在の経済状況においてはアベノミクスの金融政策はむしろ評価すべきなのだ。そうでなければ失業者が世に溢れていたのだから。

安倍氏、石破氏の舌戦に隠された印象操作。ただだまされるだけの我々に非あり。

 ニュース23自民党総裁、候補者討論には度肝を抜かれた。何故ならあまりにもひどい印象操作が仕組まれているように感じたからだ。未だにモリカケ問題などとはっきりと黒にも白にもできていない問題をいちいち取り上げ、結果として政策論に踏み込むこともない。

 

 ただマスコミが安倍叩きがしたいだけなのである。そして我々国民の方を向いていないのは政治家だけではない、マスコミもまたそうなのだ。

 

 安倍首相はそもそも消費増税には反対であったし、TPPも農産物の関税死守などを掲げ自民党を大勝に導きまた首相に返り咲いた。この時も彼の方便に騙される国民がいて辟易したわけではあるが、こうしてまた国民は印象操作によって右往左往させられているだけなのである。

 

 マスコミが持ち上げた民主党が政権をとってどうなったか。それを今思い出し、また同様に大阪維新の会などをかたや持ち上げていたマスコミはどうなったのであろうか。いずれにせよ無責任な印象操作を繰り返し社会的亀裂や混乱を招いただけで、これらになんの正の効果は望めなかった。

 

 日本にとって不幸なのは政権交代が少ないという事ではない。むしろ政権を担える責任能力と実務能力が伴った日本国のためになる政党が無い事なのである。つまり投票する場所がないのだ。だとすればせめて実務経験だけでも持ち合わせた自民党が政権を担う方がマシというものなのである。

 

 例えばSNSなどを見ていると、右翼がー。左翼がー。などと未だに見えない敵と戦っている輩がいるが、そんな時代錯誤の思想は最早意味を成していないのである。むしろウヨクと呼ばれる彼らもサヨクと呼ばれる彼らもいずれも日本という伝統を無視し、「改革せよ!」などと言って"破壊"を信条とする。結局のところ同属嫌悪に陥って罵り合っているだけなのだ。

 

 そんな中、時にお祭り的に擁護したかと思えば、お祭り的に反対する。こうした風潮こそ打倒すべきなのである。例え、今回の総裁選において石破氏が優勢に見えたとしても、彼もまた言うことが日和見的なのであって、実務において政権の安定性を欠く事は否めない。つまり一種のムーブメント。それに乗っかっても今擁護している彼らは何の責任も持たないのである。

 

 TPPについての批判、社会政策についての批判、経済政策についての批判、あらゆる場所で再考されるべき課題が幾重にも積み重なっているにもかかわらず、たかだか印象だけで国民感情が動いていく。やはり国民主権というのは誤りであると言われないがためにも政治や経済について少しは勉強したうえで発言しまたは権利を行使すべきであって、むしろそんな時間も余裕もないならば、いちいち政治なんかに関心を持たぬ方が良い。そのほうがかえっていい結果をもたらすのである。

教育無くして成長なし!眼前の損得に踊らされる今日を憂いて。

 最近の潮流について断言しよう。今、目先の損得に人々の行動が左右されている!これは由々しき事態である!

 

 そもそも長期的な投資というのは、国家であれ企業であれ家庭であれ、ひいては個人であれ絶対的に必要な物であり、これを無くして成長は望めないのである。

 

 私が説く"長期的な投資"というのは、家庭であれば教育費など、企業であれば研修費や研究費など、国家であれば文教費などの事を言っている。たった目先の事を考えればそれらは一見コストにしか見えないのであって、長期的に見てもそれらが"利益"に直結するかと言われればそうでもなかったりする。

 

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 LEDの開発者中村氏は日亜化学工業の中で反対されながら開発をし、それが実を結んだことで現代では画期的に広まりつつある。だが彼はこの開発について目先の利益を追って開発に成功した訳ではないのである。

 

 そしてこのような事例はあらゆることに当てはまっている。国家規模の話でいうところ、現代日本(2015年データ)においてはGDPにおける国家の公的教育予算割合がOECD32か国中の最下位!3.5%となった。イギリス5.2%、アメリカ4.7%、OECD32か国平均4.7%、ドイツ4.3%などにも大きく水をあけられている。

 

 よく国家予算における国債発行累積高を国の借金が多額に上り首が回らなくなっている。教育分野を削るしかなくなっている等という。しかしこれらを疎かにしてどうやって国家を長期的に維持していこうというのであろうか。少子高齢化は益々進行するばかりで老齢者の数は増える一方。こうした事態によって社会保障関連費の増加は年を追うにつれ進行するのは火を見るより明らかなのである。

 

 かえって教育予算を減らし、長期的な展望を一切無視しこれらをコストと呼ぶのならば、この国家に希望を持つことは出来ない!

 

 これらは企業経営などにも大きく当てはまっている。研修費や研究開発費などよりも短期的な投資である広告費などへ予算配分を行う会社が増え、またそれらとの価格競争など過当競争化していく。これらは近年ブームのように巻き起こった規制緩和の嵐によって生じた問題でもある。

 

 さらに上記のような経営体質は、消費者たちにあらゆる本質を見誤らせる絶好の機会でもある。例えば、非正規化や過当競争が激化した企業によって引き起こされる事故などのリスクの増加。こうした問題は多くの分野で今懸念されるものでもあるのだ。

 

 近年高校や大学までもが研究や学問の場というよりも産業界の求める人材を送り出そうという時代の要請に応じた教育をしようという考えになって来ている気がする。学校の就職予備校化という事態は、好ましからざるものである。

 

 学費などの値上げを含めた学業機会の減少、所得格差による学歴格差などによって選択機会が減少し、またそれによって封建的な身分制が別の形となって創出されようとしている。

 

 更には奨学金によって学生時代から借金を背負わされ、社会に出たときの状況によって非正規雇用となってしまえば、生涯年収は下がりそこから這い上がる事は出来なくなってしまっている。まさに企業の奴隷として擦り切れるまで働き、経済状況によってはすぐに解雇されてしまう事だってあり得るのだ。

 

 非正規雇用化が進むことによってこれまでは柔軟に行われていた、熟練者からの技術移転は遠のき企業の長期的な維持や成長に問題を齎している。更には企業が研修や研究開発に力を置かず、短期的な損得勘定によってその場しのぎを繰り返している。これでどうして国家規模で成長できると言えるのであろうか。

 

 国家でいう教育は、長期的投資であるというばかりでなく、セーフティネットとしても機能することになる。一度社会からはじき出されてしまった人々を、自らの力で再起できる可能性を増やす。これらを疎かにして目の前の損得にばかり踊らされる今日の状況は、社会不安を大きくする可能性すらある。

 

 教育無くして成長なし。これからの教育に対する予算の拡充を切に願うばかりである。

世襲とはいけない事なのであろうか。

 よく政治家の問題で世襲議員というだけで批判されることがある。しかし世襲が問題なのであれば、雅楽を奏でる奏者を批判すればよいのであって、天皇を批判すればよいのであって、歌舞伎や能楽の演者を批判すればよいのであって、と多くの伝統を否定してしまうのである。

 

 そもそも世襲は悪い事ではない。

 

 何かを引き継ぐ、受け継ぐという事においては責任が常に付きまとうことになるのである。例えば、天皇家は常に人々の眼が向けられていて、なおその高貴さを保たれている。これはひとえに先祖代々受け継がれてきた、そして少しずつ少しずつ紡いできた歴史を背負う。その責任の表れでもあろうのではないだろうか。

 

 以前、警察官の子供が警察官になっている事が警察の腐敗を表していると評すジャーナリストを見たことがある。しかし子供のころからその父の背中を見続けているのに、どうして親がしている仕事を尊敬できない訳があろうか。私はこのジャーナリストが言っている言葉が軽率で滑稽に思えてきたのを思い出す。

 

 私はこの学問の意味さえこの文明をより良い形で子孫に残す、相続の関係であると捉えている。その相続は血縁関係のみに存している訳ではない。あらゆる人々からの遺産。それは過去および現在を生きるあらゆる人々からの相続である。

 

 歴史というのはあらゆるものを親から引き継ぎ、そしてより良い形で子供へ引き継ぐという過程であると捉えている。つまりそこには引き継いだ人間の責任というものが常に存在しているべきであるという事なのだ。決してそれを破壊するのではないのだ。ただしあらゆるものは常に新しいわけではない。そこには、ほころびも生じるであろう。そのほころびは時代に応じて修正するを要するのである。

 

 プラトンはエロスの神は永遠性を示すものであると言った。愛の女神であるエロスは子供を産ませるという行為によって、その永遠性を手に入れさせんとするものなのであると。人は子供を遺すという行為をして、歴史を紡いでいくのである。ところで、工芸品や芸術、技術や学問、思想哲学を含むあらゆるものがその永遠性を持つといった。全ての人間は懐妊状態であり、何かを生み出だすことが出来るのである。そこに尊さがあるのである。

 

 我々はつい政治家の世襲という部分に批判的になる。だがこのように考えてみると世襲が問題ではなく、それを自覚しない政治家が問題なのだ。またそのような責任をそもそもない物としてふるまい、これまでの過程を根本から破壊しようとする者がいる。面白い事に人間の社会は同じことを繰り返しているような場面がいくらかある。”以前の思想を否定して現在の思想を是とする”という風潮だ。そうした風潮は歴史を見てみると何度も何度も同じような道をたどっているように見えることだってある。

 

 だからこそ相続が必要なのである。しかし相続するにも限度があり、失われつつある財産もあるだろう。その限度を現行世代が少しずつ大きなものにしていく必要はないであろうか。前述したプラトンの思想だってそうである。彼が提案した多くの事は現代にも当てはまる普遍的なものであったりするのだ。つまり社会は進化していないともとれるのである。人間が人間である以上そこに抗う事はできないのかもしれない。しかしプラトンを否定してもそれは進化とは言えないのである。

 

 古典には物事の神髄が隠されていたりする。

 

 そうした事を学び、受け継いだ我々はそれをどう次の世代に引き継ぐかを考えるべきなのである。政治の問題は近年この先数年や数か月の話をしている事がある。目先の利益に踊らされることだって往々にしてある。しかしその政策を謳う政治家が果たして100年後200年後の未来を見据えつつ、過去、現在、未来で生活した、する、していく人々が納得する政治をしているであろうか。そしてそれがとても大事なことではないだろうか。

 

 例え数年の未来が明かるかったとしても、”今を生きる我々だけが良ければ良いのだ”という政治がなされ、まだ生まれてきていない子供たちの未来をないがしろにしている場合とてつもなく問題がある。それにこれは垂直的な話をしているが、水平的な話であっても同様で、この人にとってはいい話でもこの人にとっては悪い話というのが当然出てくる。その場合、全ての人が納得できる政治が行えるかが重要なのである。それは利益か不利益かという問題ではない。納得できるか否かの問題なのである。

 

 二世議員が問題なのであろうか。否である。成り上がり者も往々にしてこれまでの過程を皆目無碍にし、自分たちが良ければ良いとする改革を断行したりする。そうした破壊的な政治がもっと問題なのではないだろうか。

 

 現代では保守と呼ばれる政治家が創造的破壊を標榜する。つまり保守だろうが革新だろうが、その同根には同様の思想を宿しているのである。こうした問題の根底には、歴史の中間者としての責任の上に立つ政治家を大衆が選ぶ責任があるという事を自覚していない事実が横たわっている。

十二分に使い倒したEOS60Dとは何か。

僕が60Dを買った理由は、写真を本格的な趣味にしてみたかったからだ。当時でも旧型だったのだが、私に新型を使い倒す自信はなく、型落ちしたコイツを相棒に決めた。

 

当時でも新型とは言えないコイツ。再び買いなおすことを考えると、最初からフルサイズの6Dを買いなさい。当時そういう意見が多かったように感じる。でもお手軽なキットレンズを使える60Dを選んだことを後悔はしていない。

 

60Dを使ってる間に世間は70D、7D2、80Dと圧倒的に60Dより高スペックなものが登場していた。だけど僕はカメラが趣味ではなく、写真が趣味なのだった。今ある道具を120%、そして十二分に使ってこそ次なる道具に息を吹き込むことが出来る。

 

カメラというのは道具で、自分の表現を実現するものでもある重要な部分。道具がなければ野球が出来ないのと同様に、カメラが無ければ写真は撮れない。その道具もいい物である必要はあるが、それ以前にその道具を使いこなせなければ何にもならないのだ。

 

60D、こいつは写真を撮るうえでは十分な存在だ。ただし撮る写真を選ぶ必要があるが。レンズがその場に無いときは諦めて、違う主役を探す。こういうことがカメラにも言える。コイツが十分に力を発揮できないものは、諦める。それに主役を決めるのは僕たち自身だ。そのことに気づくころには相棒になっていた。

 

可能な限り低感度で、可能な限り絞り込み、可能な限りブレを抑える。そうした風景写真を志したうえでは、ほとんど障害はなかった。主役は地球上幾分にも存在しているし、どんなものでも主役になり得る。それを探すのが我々で、道具に使われてはならないのだ。「酒は飲んでも飲まれるな」うむ、いい言葉だ。「カメラを使っても使われるな」と反復したい気持ちである。

 

実は60Dでさえ、初めて一眼レフを手にした気持ちは複雑だった。これさえあればどんなものも作品に出来ると思い込んでいたが、適当にとってみてもありきたりの写真にしかならない。いい写真っていったい何なんだ。そう考えると不安がよぎった。一眼レフを持ってもいい写真は撮れないじゃないかと。そいつはそれを操る従者がいてこそ、力を発揮できる馬だったのだ。

 

いいカメラだからこそいい写真が撮れるのではなく、いいカメラだからこそ撮影者の意図を反映できるのだ。断じて主客転倒するものではない。こうした精神で僕はこれからも行こうと思う。