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現代の怪物

社会を論じる

十二分に使い倒したEOS60Dとは何か。

僕が60Dを買った理由は、写真を本格的な趣味にしてみたかったからだ。当時でも旧型だったのだが、私に新型を使い倒す自信はなく、型落ちしたコイツを相棒に決めた。

 

当時でも新型とは言えないコイツ。再び買いなおすことを考えると、最初からフルサイズの6Dを買いなさい。当時そういう意見が多かったように感じる。でもお手軽なキットレンズを使える60Dを選んだことを後悔はしていない。

 

60Dを使ってる間に世間は70D、7D2、80Dと圧倒的に60Dより高スペックなものが登場していた。だけど僕はカメラが趣味ではなく、写真が趣味なのだった。今ある道具を120%、そして十二分に使ってこそ次なる道具に息を吹き込むことが出来る。

 

カメラというのは道具で、自分の表現を実現するものでもある重要な部分。道具がなければ野球が出来ないのと同様に、カメラが無ければ写真は撮れない。その道具もいい物である必要はあるが、それ以前にその道具を使いこなせなければ何にもならないのだ。

 

60D、こいつは写真を撮るうえでは十分な存在だ。ただし撮る写真を選ぶ必要があるが。レンズがその場に無いときは諦めて、違う主役を探す。こういうことがカメラにも言える。コイツが十分に力を発揮できないものは、諦める。それに主役を決めるのは僕たち自身だ。そのことに気づくころには相棒になっていた。

 

可能な限り低感度で、可能な限り絞り込み、可能な限りブレを抑える。そうした風景写真を志したうえでは、ほとんど障害はなかった。主役は地球上幾分にも存在しているし、どんなものでも主役になり得る。それを探すのが我々で、道具に使われてはならないのだ。「酒は飲んでも飲まれるな」うむ、いい言葉だ。「カメラを使っても使われるな」と反復したい気持ちである。

 

実は60Dでさえ、初めて一眼レフを手にした気持ちは複雑だった。これさえあればどんなものも作品に出来ると思い込んでいたが、適当にとってみてもありきたりの写真にしかならない。いい写真っていったい何なんだ。そう考えると不安がよぎった。一眼レフを持ってもいい写真は撮れないじゃないかと。そいつはそれを操る従者がいてこそ、力を発揮できる馬だったのだ。

 

いいカメラだからこそいい写真が撮れるのではなく、いいカメラだからこそ撮影者の意図を反映できるのだ。断じて主客転倒するものではない。こうした精神で僕はこれからも行こうと思う。